英国競馬1963(3)

50年前の英国競馬回顧、3回目はいよいよダービーです。

既に紹介したように、1963年の2000ギニーはほとんどダービーとの関連はありません。勝ったオンリー・フォア・ライフには登録が無く、2着のアイオニアンは距離不適。1番人気で惨敗したクロケットも最初からダービーを狙う血統ではありません。
最終的にギニー組からダービー出走を果たしたのは4頭のみ。3着のコーポラ Corpora 、7着のポートフィノ Portofino 、12着ハッピー・オーメン Happy Omen と16着のザ・ウィリーズ The Willies だけでした。このうちコーポラはダービーのトライアルを使わずにダービーに直行します。

ギニー終了時点では確たる中心馬も無く、未勝利馬が何頭か話題になっては消える状況でしたが、ギニーの翌週に行われた仏2000ギニーで評判馬のレルコ Relko が圧勝。管理するフランソワ・マテ師がエプサム遠征を高らかに宣言し、直ぐに同馬が9対1でダービー1番人気に登場します。結局はレース本番までレルコが本命の座を守り通し、シースでも実力を見せ付けることになるのですが、その前に・・・。

ギニーとダービーの間には、当時も距離とコースを意識したトライアルがいくつも行われます。
当時は年に一度だったチェスター開催では、チェスター・ヴァーズを制したクリスマス・アイランド Christmas Island にはダービーの登録が無く、ディー・ステークスの覇者マイ・ミオソティス My Miosotis にもダービー登録が無いという事態。
続いて行われたレパーズタウンのトライアル(ウィルス・ゴールド・フレーク、古馬にも出走権あり)では3歳を抑えて古馬が勝利し、漸くブライトン競馬場のトライアルでギニー7着のポートフィノが勝利します。この馬とてギニーの実績は疑問視され、1番人気には推されていませんでした。

ヨーク競馬場のダンテステークスは、現在でこそ最も重要なダービー・トライアルですが、当時は未だ創設されて6回目の新しい一戦。優勝はマーチャント・ヴェンチュラー Merchant Venturer で、他の出走馬は全てダービーを回避してしまいます。
続くリングフィールド・ダービー・トライアルは、過去の勝馬からダービー馬も数多く生まれており、レルコの対抗馬出現を期待するレース。実際に出走馬のほとんどがダービーへの登録を済ませていた馬でしたが、勝ったのは意外にも未勝利馬だったデュプレーション Duplation 。この結果、2着以下の出走馬は全てエプサムから手を引くことになってしまいました。

こうした中で迎えた5月29日のダービー、前日の霧雨こそ上がったものの、当時でもダービー史上最も寒い日と評された競馬の祭典は、観客数も例年以下。レースの写真を見ると、観客は全員が厚手のコートの襟を立てての観戦、特に英国競馬ファンにとっては心身ともに冷え冷えとするダービーになってしまいました。
出走馬は26頭。パドックに真っ先に登場した1番枠のレルコが、最終的には5対1の1番人気。パドックで人気が急上昇したのは、前日は16対1でしかなかったデュープレーションで、賭け金が一気に流れ込んで何と6対1の2番人気に。あとはチェスター・ヴァーズ2着ながら、グリーナム・ステークスでオンリー・フォア・ライフを破っているファイティング・シップ Fighting Ship が8対1の3番人気。ギニーのマレー騎手からレスター・ピゴットに乗り替わったコーポラが4番人気(100対8)で続きます。

当時のスタートは現在のようなゲート(英国ではスターティング・ストールと呼びます)ではなく、バリアー方式(当時、英国ではこれをゲートと呼んでいました)。エフ・スミス騎乗のフラバルー Hullabaloo が整列をむずかってスタートは15分以上も遅れる始末、結局はフラバルーを除外した25頭がスタートを切りました。

レースは前年のようなアクシデントも無く比較的スムーズに流れ、タテナム・コーナーを5番手で回ったレルコが抜け出し、2着マーチャント・ヴェンチュラ―に6馬身の大差を付ける圧勝。2着と3着の着差も3馬身と決定的で、3着はアイルランドのラグサ Ragusa 。4着もアイルランドから遠征のターコガン Tarqogan (愛2000ギニーから唯一の参戦)が入り、5着はフランスのコーポラ。結局、1着から5着までに地元英国の調教馬は2着馬1頭だけという(イギリスにとって)惨めなダービーとなりました。6着馬が勝馬から20馬身も離されるのは滅多にあることではありません。
着差の6馬身は1951年のアークティック・プリンス Arctic Prince 以来、マンナ Manna がジオニスト Zionist に付けた8馬身に次ぐものとなりました。フランス調教馬が制したのは戦後でも6頭目。パール・ダイヴァー Pearl Diver 、マイ・ラヴ My Love 、ガルカドール Galcador 、フィル・ドレーク Phil Drake 、ラヴァンダン Lavandin に続くもの。
レルコを管理するフランソワ・マテ師にとってはフィル・ドレイクに次ぐ2度目のエプサム・ダービーで、オーナーのフランソワ・デュプレ氏は、意外にも英仏を通じて初のダービー制覇となりました。

更に記録を続ければ、騎乗したイヴ・サン=マルタンはダービー初制覇ながら、前年のオークス(モナード Monade)に続きイギリスのクラシックは2勝目。エプサム競馬場のウイナーズ・サークルには、前年のコロネーション・カップ(ディクタ・ドレイク Dicta Drake)でも登場しており、スッカリお馴染みの光景になってしまいました。
フランソワ・デュプレ氏は病気療養中のため渡英は叶わず、レルコの口取りはデュプレ夫人が替って行いました。この時の写真がロジャー・モーティマー著「ザ・フラット」に掲載されているのはご存知の通り。

2歳時のレルコは、ル・トランブレー競馬場(現在は閉鎖)とメゾン=ラフィット競馬場でデビューから2連勝しましたが、負ける訳がないと思われていた3戦目のクリテリウム・ド・メゾン=ラフィットで無名の牝馬に思わぬ敗戦。2歳最後のグラン・クリテリウムでもフラ・ダンサーの4着に終わり、評価を落として2歳シーズンを終えます。
順調に成長して冬を越したレルコは、シーズン初戦のギッシュ賞に快勝、続く仏2000ギニーで2着馬に2馬身半差で圧勝し、マテ師にダービー参戦を決意させたのでした。

ところが1963年のダービーはこれでは終わりませんでした。
創刊から数世紀に亘って正午に刊行されてきたジョッキー・クラブの機関紙レーシング・カレンダーが、この年の8月29日号に限って5時間も遅れて発表されたのです。(カレンダーとは、日本中央競馬会の成績広報のように、開催の節目ごとに競馬成績表が掲載されたもの)
戦時でさえ伝統が守られてきたカレンダーの発刊遅れは、ジョッキー・クラブとナショナル・ハント・コミッティー(障害競馬の権威団体)が共同で発表したコメント、5月を含む期間の平場・障害レースで7頭の馬にドーピング疑惑がある、が原因でした。

この時点では馬名は公表されていませんでしたが、直ぐにダービーのレルコが対象であるという噂が広まります。実際に3週間後に公開された記者会見で、レルコの場合は薬物が唾液からは検出されなかったものの、尿検査で陽性だったことが公表されます。
しかしドーピングについては手段、意図、効果などが明瞭でなく、更なる検察の捜査を待つという内容。これに対しフランス競馬界が猛反発し、元来犬猿の仲にあるイギリスとフランス、論争は次第にヒーアップして行きます。

この間、出走を予定していた愛ダービーでは、スタート地点までは何事も無かったレルコに、スタート直前に跛行が発覚。スタート地点のサン=マルタンとスタンドのマテ師との電話のやり取りで最終的には出走取り消しとなります。無念のサン=マルタンがヘルメットを叩き付けて悔しがるシーンが印象的。
この件に関しても薬物検査が行われましたが、結果は陰性。ドーピングの疑惑は見出せず、馬自体もその後に問題になる様な事実はありませんでした。

ジョッキー・クラブの対応、組織としての問題点をも巻き込んだレルコ論争は、漸く10月3日になってジョッキー・クラブが同件が競馬法に触れるものではないと判断したことで決着、最終的にレルコのダービー優勝が確定したのでした。

こうした喧噪のなか、レルコはダービー以降最初の実戦として9月15日にロンシャンの仏セントレジャー(ロワイアル・オーク賞)に出走します。直線入口で先頭に立ったレルコには、スタンドから大歓声が。
意外なことにフランス競馬界ではマテ調教師もオーナーのフランソワ・デュプレ氏も余り人気は無く、この大声援は明らかにパリッ子たちのイギリスに対する敵愾心の表れだったのでしょう。声援にも押されたレルコは、仏ダービー馬サンクタス Sanctus を問題にせず2着に3馬身差を付けて圧勝。同世代のチャンピオンであることを世界中に印象付けたのでした。英仏を股に掛けた三冠制覇は極めて珍しい事例でしょう。

3歳の最後のレースとして臨んだ凱旋門賞は、1番人気に推されながらも古馬エクスバリー Exbury の軍門に屈して6着。レース前の焦れ込が酷く、大レース特有のスタンド前のパレードを極端に嫌うレルコの気性が敗因に挙げられました。

古馬としてのレルコは、ロンシャンのガネー賞、再びエプサムに遠征してのコロネーション・カップ、最後のレースとなったサン=クルー大賞典をいずれも制して引退。シンジケートが組まれ、英国サセックス州のラヴィントン・スタッドで種牡馬生活に入ります。

残念ながら種牡馬レルコは、競走馬としての成績を上回ることなく生涯を終えます。代表産駒としては、グラン・クリテリウムのブレトン Breton 、愛オークスのオルウィン Olwyn とギヴ・サンクス Give Thanks 、ヨーク・インターナショナルのレルキーノ Relkino 、カドラン賞のカーコー Karkour くらいでしょうか。
日本ではレルコ産駒には活躍馬は無く、レルコ直系のフラッシュ・ライト Flash Light が種牡馬として輸入された程度でしょう。フラッシュ・ライトも重賞勝馬としては函館3歳ステークスのソーウンムサシがいるだけ。我が国には根付かない血統でした。

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